キイロイ

星乃勇太と宇宙人アイドルと

記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。-極上文學第十三弾「こゝろ」

読み師はその手元に一冊、本を持っています。

 

 

先生に出逢った私はその本を抱き締めました

 

結婚の申し込みの際、先生は本を力強く静の母親に差し出しました

 

妻は先生の本に手を伸ばしますが、本には触れることができず宙で止まりました

 

Kは死際に遺書を挟み、その本を閉じました

 

 

彼らの本は朗読する為の台本であることを超えて、彼らの「こゝろ」としてそこにあります。

 

 

マルチキャストの本作で、わたしが観劇した回の組合せは下記となります。

残念な事に他の組合せを観ることは叶いませんでしたが、役者によって印象がだいぶ変わるかと思いますので、敢えて記しておきましょう。

 

 

私…内海啓貴

先生…平野良

K…松井勇歩

妻…東拓海

 

 

平野良さんは、歩いた後に色気を落としていくような先生でした。

先生が他の人物と身体を触れ合わせることはほとんどありませんが、そういった行動無しにも、何処からか香る色っぽさがあるのです。

 

若い私が先生を見つけ、その心を開かせようと苦労することが必然のように感じました。

未熟で真面目な魂を攫ってしまう妖しさを纏う先生です。

 

 

序盤で、先生が私の顔に付いた砂を払う場面があります。

眼に見える以上の甘い空気、そして息を呑むほど美しい光景でした。

 

先生がどれだけ私に近付いても、私の頭の後ろに回された先生の心を、その存在は感じ取れるにも関わらず、私は捉えることができません。

その代わり、先生越しに自分の心を見たはずです。

私は胸の前に戻ってきたそれをそのまま抱き締めました。

 

心と心の触れ合いは、時に道徳的な優しさをもって語られます。

しかしこの時、私が先生に抱いたものは欲望でした。

愛欲にも似た欲望が、無邪気な好奇心と憧憬の奥に生まれた瞬間を見たように感じます。

 

 

「私」を演じたのは内海啓貴くん。

純朴で整った麗しい顔立ちが、舞台装置のひとつとして「私」を彩っていました。

彼を観るのは、3(5?)作品目*1となるのですが、こんなに美青年とは知らなかったです。

 

 

東拓海くんは「妻」を演じました。

 

拓海くんの芝居は、その場の空気感を不意に飛び越えてしまいそうなところに魅力と恐ろしさがあります。

だからこそ本作の彼は、「飛び越えまい」とする芝居だったように感じました。

 

妻は、可愛らしい女です。

Kや先生が神経までも擦り減らす様に敢えて困難に生きる男である分、等身大に感情を使う妻は可愛らしく見えます。

 

 

“最も幸福に生まれた人間の一対であるはず”の先生と妻の繋がりは、結婚や出産が当たり前の幸福でなくなった現代のわたしの眼には、信じられない程に美しく見えました。

 

彼らが交わした中に「恋」や「愛」という言葉はありません。

きっとそんな言葉では表しきれないから「心」なのでしょう。

他人であった筈の男女の間にこれ程の愛情が生まれるものか、とわたしは堪らない気持ちになるのです。

 

 

舞台の上は、鮮やかな色彩によって印象的に彩られていました。

 

白黒の活字世界を、これだけの色の中で立ち上げていることは、素直におもしろいなと感じます。

 

はらはら落ちる銀杏の葉、まあるい美しい月の黄色。

切腹で舞い上がる鮮血、Kが遺せなかった心で白い壁を汚した紅。

 

先生が遺書に書き留めた言葉は絵具となって、着物を剥がされた私とKの身体を色とりどりに汚していきます。

妻の白くて柔らかな手(その手が大きな男性のものと知りながら、この時わたしにはこう見えたのです)も、同様に。

 

そして、先生の最期を覆い尽くすようにどさっと音を立てて落ちた金色

その美しい光景は、猛烈な遣る瀬無さと共に網膜に焼き付いてしまいました。

 

 

本作、物語の語り師は“吾輩は猫である”の猫でした。

猫は心を持ちません。

 

そういえば、開演前に客席に迷い込んだ具現師も五匹の猫でした。

猫たちがおもむろに破いたり、ばら撒いたり、オモチャにしていたものは、あの“本”だったではありませんか。

 

人間は心の為に生き延ばしたり自ら死を選んだりするのに、猫たちはそれを大切に扱うべきなのかぞんざいに扱って良いのかの区別すらしないのです。

 

 

それでも、先生の生きた姿を美しいと思ってしまったから、

わたしは「私」の身体に遺された先生の「こゝろ」を思いました。

*1:テニミュで3作品観たので

それは、共鳴する命の輝き−ミラクル☆ステージ『サンリオ男子』

きっとどこにでもいる、でも、ここにしかいない、平凡で特別な男の子達の日常。

 

例えば、応援しているスポーツ選手だったり、好きなバンドだったり、想いを寄せる女の子だったり、まだ熟す前の若い魂が何に惹かれるのか探す時に、彼らはサンリオキャラクターを選んだ、ただそれだけのことです。

 

男“なのに”サンリオが好き、という問いはとっくにクリアした彼らの日常には、モテたいとかモテないとかキスとか童貞とか騒ぎながら、ごく自然にサンリオキャラクター達が溶け込んでいました。

 

 

お話は、関東と関西の高校生であるサンリオ男子10名と、その教師であるサンリオおじさん2名がショートストーリーで描かれたオムニバス形式です。

 

中野のテアトルBONBONかな??みたいな会話劇で紡ぐコメディと、ピューロランドのショーやパレードのような電飾やプロジェクションマッピングを使った派手な演出で、銀河劇場にみんなが輝くキラキラ空間が生まれていました。

 

 

とにかく可愛い男の子達を可愛いまま、まるで遊ばせているかのように描く亀田真二郎さんの脚本は、1人1人のキャラクターを輝かせます。

 

特に可愛いかったのは関西サンリオ男子

オリジナルキャラクターの彼らは個性があちこちで暴発して、収拾がつかなくなる程暴れまくっていました。

 

この、幼稚園どころか動物園みたいな無秩序空間、どこかで観たぞ…と思っていたのですが、劇場を出て思い出しました。

 

プレゼント◆5*1だぁ!!!!!

 

懐かしさと愛おしさと、普通に面白すぎて死にそうになります。

 

KIRIMIちゃん.推しの若野ゆずが持つ愛はサイコパス過激派オタクで最高でした。

基本的に無邪気な笑顔や言動を見せているのに、時々意味分からないとこでブチ切れます。その勢いがおもしろくて、キレるたびに死ぬほど笑っていました。

 

暴れまくるゆずに静かに乗っかるのは、一見真面目そうな部長の柏木智博。

関西サンリオ男子達、そもそもはマンドリンギター部という設定もじわじわきます。

 

豊原夢ノ介は独自の方向へ独自の角度でズレていて、しかもそのまま突き進む恐ろしい子です。

京都弁も黒髪おかっぱも唐突に飛び出す演舞も、その“妙”さが定本楓馬くんによく似合っていました。

 

ボケ倒す3人に、時に乗っかり、時に弄られ、汗だくでツッコミを入れる羽倉虎男。

演じるのは、的確なツッコミと進行に定評のある北乃颯希くんです。

1人だけ消費エネルギー半端なさそうですが、散らかったボケをひとつひとつ拾っているのが愛だなぁと思います。

 

 

関東サンリオ男子は、基本のキャラクターは守りつつ、舞台ならではの自然な姿に進化を遂げていました。

 

長谷川康太を演じるのは北川尚弥くん。

 

顔が可愛い。

 

顔が可愛い!

 

この可愛い顔で怒涛のごとくコミカルな芝居をするのでおもしろかったです。

 

アニメで見た時は康太のキャラクターが少し苦手だったのですが、亀田さんが描く北川尚弥くんの康太は顔が可愛いし、ブラック康太もあくまでコミカルだし、顔が可愛いので、舞台の後はすっかり愛おしい男の子の1人になっていました。

共感を棄てたウザ可愛い長谷川~💛です。

 

水野祐はチャラい言動と、意外に常識人な側面のギャップでおもしろさが引き出されていました。

対人距離がめちゃくちゃ近いのが祐っぽいです。男子高校生のじゃれ合いを観ることができます。

生真面目なのかふざけているのか分からない、和合真一くんの源誠一郎は若干面倒くさい人でした。

 

 

サンリオ男子のテーマは「キラキラ」

 

男子達は、どうしたらキラキラできるか、という問いの答えとして「好きなことを好きと言うこと」を導き出しました。

 

 

もう男子のようにはしゃげないサンリオおじさん達。

 

大きな声で好きを叫んだり、堂々とキャラクターカフェに居ることができなくても、それぞれの生活に大好きなキャラクターを染み込ませていました。

きっとそれぞれのライフスタイルにあった、「好きの方法」があるのです。

 

 

サンリオ男子達の「好き」もそれぞれでした。

 

俊は「キティさん」呼びに拘ります。

推しのこと神格化しがちなのはオタクあるある~と思いながら見ていました。

 

同じくキティ推しの夢ノ介。

彼は「キティはん」呼びに拘っています。

 

同じキャラクターでも、思い入れも捉え方も違う、ひとりひとりが自分の「キティ」を愛することができるのです。

 

自信家の夢ノ介がサンリオ界の頂点に君臨するキティを推していることも興味深く思いました。

 

ゆずが大好きなKIRIMIちゃん.は、まだグッズ展開も少ないコアなキャラクターです。

 

これは憶測と偏見であって、決して実体験ではありませんが、オタクの少ない子を推すと自分が100人分応援しなきゃと思って過剰な言動に走りがちな気がします。

KIRIMIちゃん.推しのゆずの愛が暴走しているのはおもしろい傾向です。

 

主張の強いゆずに比べ、智はポチャッコを「思い入れがあるのは、」と控えめに表現します。

声の大きさが好きの大きさではありません。

きっと、智はポチャッコのこと、表面に現れている以上に好きだと思います。

 

虎男が挙げる好きなもので、クロミお嬢と阪神タイガースは同列に扱われていました。

「好き」は複数あったっていいのです。

 

祐にはピンクが似合います。

そしてメロちゃんはピンク派。

メロちゃんは最高にイケてるし、メロちゃんが好きな俺も最高にイケてる☆というスタンスです。

好きなものが好きな自分も好き、なんて、オタクとして理想の姿です。

 

誠一郎は、舞台では描かれていませんでしたが、シナモロールに会いに行って、触れ合いを求めるタイプだったと思います。

諒にとってリトルツインスターズは、内向的な彼と、会長を始めとする友人を繋ぐ大切な役割を果たしているように見えました。

 

ピューロランドで働き始めた康太。

康太はまだ、自分が自信を持って示せる「何か」を見つけられていません。

だからこそ他のサンリオ男子達やサンリオキャラクターがキラキラして見えるのでしょう。

ポムポムプリンはまだ不安定な彼の魂を支えるものであり、彼が進化を遂げる為の糧でもあります。

 

 

千秋楽の様子はニコニコ生放送で観ていました。

北川尚弥くんが挨拶で、「僕たちのことをいつまでも好きでいてください」と言っていたことが印象に残っています。

「これからも」はよく聞くけれど、「いつまでも」を使ってくれる俳優さんはなかなかいません。

 

自分が誰かにとっての「好き」の対象であることを自覚していて、その時どんな姿を見せるべきかよく分かっている。

 

なまじ生きている人間が対象なだけに、若手俳優への「好き」は、時々対象そのものから否定されるのではないかと不安になります。

そんな不安を吹き飛ばしてくれるような心強い言葉を、対象自身が発してくれる。

 

「僕もみなさんのこと大好きです」なんて、あざといかもしれないけれど、素敵な役者さんだなと感じました。

 

 

劇場には多様な「好き」を持った人々が集っていました。

 

サンリオ男子が好きな人も

その他のサンリオキャラクターが好きな人も

役者が好きな人も

演劇が好きな人も

 

今の時代、好きの気持ちを真っ向から否定されることなんて滅多に無いです(と信じています)。

それでも何かに熱中することは、怖さや後ろめたさが付き纏います。

2次元から出てきてくれないキャラクター、子供向けと思われがちなサンリオ、お金を払って”会いに行く“俳優、奇異なものを見る視線を恐れて、だんだん「好き」を言えなくなっていく自分がいました。

 

舞台の上の、普通で特別な男の子達が、実は全編を通して叫んでいた「好きなものは好き」という単純なメッセージ。

 

それは客席にいる、やっぱり普通で特別なひとりひとりに届けられます。

 

キラキラしていたのは、電飾やペンライトの光だけではありません。

 

舞台や客席、次元も超えて共鳴する「好き」の気持ち。

ひとつひとつの、命のキラキラでした。

 

 

因みに私はゆずくん推しです🐟

 

*1:ネルケプランニング発アイドルステージシリーズ第二弾で生まれたアイドルグループ。モテたくてアイドルになった精神年齢5歳くらいの男の子たち

ミュージカル「卓球☆ウォーズ」2018.11.23~12.2 @浅草ゆめまち劇場

推しは天才ではありませんが。

 

今回彼が演じたのは、かつて天才卓球少年として名を馳せた高校1年生の周藤天球です。

とても器用に見える努力の人である(と思う)彼が、如何に天才を演じるのか興味がありました。

 

彼の周藤天球はとても繊細な少年でした。

 

基本は無邪気で強気な天球です。

しかし、舞台のメインにはならない場面で、じっと自分の胸の内を見詰めるような姿を見せます。

悔しさ、恐怖、苛立ち、不安。

天才という形容を超えて、青春の真っ只中に佇む1人の高校生がそこにいました。

 

天球の強気な態度に隠した弱さは、歌に乗って客へ届けられます。

 

私は彼の歌声が好きです。

 

メインキャストは彼以外アイドルですし、歌が上手な方はたくさんいます。

 

しかしミュージカルとして歌った時、そこに現れる表情、強弱、視線の移動までもが、曲に歌詞以上の意味を与えると思っています。

もちろん彼も歌は上手で、難しそうな高音も綺麗に響いていましたが、私は、彼がそこで表現したい天球の心情ごと彼の歌声を呑み込んで「心に響く」ということを知るのです。

 

歌では天球の弱さが見える分、ダンスでは天球の強さが現れていました。

 

表情や台詞などの芝居だけでなく、ダンスや歌も含めて“周藤天球”という少年を作っていて、その細やかな彼の芝居が私は大好きです。

 

そういえば、千秋楽のソロダンスの振りいつもと違ってました??

あんなに見たのにぜんぜん確信できない記憶力ヤバめな私に、誰かこっそり教えてください。

 

 

日韓共同制作、というか、メインがK-popアイドル達だった所為か、終演後に手厚い特典会がありました。

正直この為に通ってたみたいなとこもあります。(そしてそういうオタクがこういう作品を増やしてしまう)

 

剥がしもいないので見様見真似で推しの前にしゃがみ込んで、すごく落ち着いて話ができて良かったです。

言いたいことを言って自主的に剥がれようとすると話しを振ってくれたり、全体的に気遣いと優しさの塊である推しを見ました。

鮮明に覚えているのは、丁寧に書かれていくサイン、推しの男の子っぽい指先と自分の見慣れた指先が視界に収まった時の感動。

今考えると推しの顔の記憶が殆ど無いです。

2人して下向いて会話してるのウケるね。

 

今年は推しにも推し以外にもいろいろな事があって、膨張していた自意識と推しへのイメージが落ち着いたタイミングだったので、この時期にこういうイベントがあったことは幸せでした。

 

単純に、好きな人とのおしゃべりって楽しい!!

 

 

ストーリーに関しては、正直特に語ることはありません。

スポーツモノで、男2人女1人の幼馴染で、ライバルがいて、だいたい想像に難くない事が起こります。

「オリジナル」「新作」と聞いて期待して行ったのですが残念でした。

今まで擦り切れる程作られた設定、展開を切り貼りしました、という印象です。

 

破壊と創造を放棄した時、そこにエンターテインメントはありません。

 

私が行った公演でも客が50人いないような日がありました。

推しだけでなく、キャストが誰一人手を抜く姿は見ていません。

それでも、座席も客も倍近く増えた千秋楽の劇場の方が気持ちが盛り上がるのは、ナマモノの舞台では仕方の無いことでしょう。

 

どんな作品でも、ストイックに取組み、初日には完璧に仕上げてくるキミの姿勢を、私は何度も目にしてきました。

 

何をもってキミの努力が報われると言うのか、私には分かりませんが、それでも、キミのその努力が報われますように、と、願わざるを得ないのです。

STAGE THE WORKOUT「朝日のような夕日をつれて」Mver. 2018.11.10-本所松坂亭劇場

終盤に差し掛かるにつれ、役者達の汗が感染るように、果たして汗を流しているのは舞台の上の役者なのか私なのか分からなくなっていました。

 

怒涛の台詞は直接心臓にぶつかって、その衝撃で溢れるのは笑顔かもしれなかったし涙かもしれなかった。

 

しりとり、2020東京オリンピックはじめてのチュウアナと雪の女王とUSA、熱血ボウリング青春ミュージカル、客席で配布されるお茶のティーバック、突然発射されるスモーク

 

混沌の世界に振り回されながら、少しずつ少しずつ、その混沌は暗くて深いものに変わっていきます。

 

4人の大人の中で、舞台を滅茶苦茶に壊して散らかしていた「少年」は、いつの間にか世界を牛耳る存在になっていました。

 

舞台から溢れる熱の洪水に溺れる中で、彼の言葉に手を引かれて、自分の形を認識する場面が何度もありました。

 

暗転。

 

舞台から客の一人一人に伸びていた糸がブツンと切られて、客席照明の中で私は疲労感に包まれるのです。

 

 

 

「少年」を演じたのは、齢21歳の東拓海くんです。

 

少年はいつもとても無邪気に登場します。

「混ぜてよ」「遊んでよ」「構ってよ」と、屈託のない笑顔で、心底はしゃいで。

少年には過去も未来もなくて、ただひたすらに今を生きているようです。

 

しかし、高いテンションで矢継ぎ早に繰り出される、出鱈目に組み替えられた時事ネタも、まるでその先が予想できない行動もおもしろいのに、心から愉快な気持ちになれない気持ちの悪さがありました。

 

その無邪気の向こうに、得体の知れない恐怖があるような気がしてならないのです。

 

それは、私が何年も人間社会のコミュニティの中で生きることによって植えつけられた社会性や常識を超越してしまったモノへの恐怖に感じます。

 

「少年」は「医者」へ「E」へとその役割が変化していきますが、「少年」の底に沈んでいた恐ろしさが湧き上がって変わっていく、自然で見事な豹変でした。

 

東拓海が持つ天性の「サイコパス」感が、知れずと役にその裏側を匂わせるのでしょうか。

トークイベントなどで見る限り、なんだかトボけた好青年って感じなのですけどね。

 

私がこの舞台を観劇した理由は、かつての小劇場ブームを代表する劇団のひとつである「第三舞台」の演目への興味もありましたが、第一は『おとぎ裁判』でジュードを演じた東拓海くんの芝居をもっと観てみたいと思ったことでした。

 

ジュードがとても好きだった分、別の舞台で彼を観ることに不安もありましたが、観劇して心底、この舞台に立つ東拓海を観ることができてよかったと思います。

 

「なにが、出番は少ないけど物語の要になる役だからだ!」

「なにが、未来の小劇場界を担う東くんにぴったりの役だからだ!」

と喚く姿にはめちゃくちゃ笑ってしまいましたが、彼が担う小劇場界の未来を、私も見てみたいと思ってしまいました。

 

 

 

Facebookが存在しない世界から存在する世界へ、2018年の私たちは、生活環境の変化に対応する為の進化を遂げた人類です。

 

 

ソーシャルネットワーキングサービスが人間関係を希薄にしたわけではない。

かといってそれが、人間の結びつきを強めたわけでもない。

 

手紙が生まれても

電話が生まれても

ポケベルが生まれても

メールが生まれても

mixiが生まれても

 

決して何者にもなれない私たちの、でも絶対に自分が唯一の価値ある人間だという自意識は膨れ上がり、SNSでの拡散が続けられます。

私が私であることを失くさない為に、考えるという行為を止めることができず、大量の人間と簡単に繋がれる世界の中で、やはり私は”ひとり”になっていくのです。

 

倒産寸前のおもちゃ会社が開発した究極のゲームは、ノスタルジィの世界で自己を全肯定する存在「ソウルメイト」を探すVRゲームでした。

 

精度の良いVRゴーグルと莫大な個人データで桁違いの没入感を持つゲームが生まれると、興奮気味に語られるその”おもちゃ”に私は胸騒ぎを覚えました。(そしてこの胸騒ぎは、このゲームを与えられたみよ子が遺した言葉によって確信に変わるのです)

 

誰からも傷つけられないことを、誰からも否定されないことを、自意識が完全に守られることを、生きる目的が示されていることを、望んでいるはずなのに、それがバーチャル世界で叶うとなると否定したくなるのは何故なのでしょう。

また得体の知れない未来が自分の手と関係のない場所で作られてしまうことに怯えるのでしょうか。

 

この演目の初演は1981年だそうです。

その後、何度も再演が繰り返されていることも聞きました。

 

どんな時代背景に生きた人間も、少なくとも、敢えて小さな劇場で小難しい演劇を作りたい、観たいと思う人間の、思想の根底にあるものは変わらないんだなと思うと不思議に感じます。

 

 

 

ゴドーは来ませんでした

「みよ子」は遺書を残していきました

 

でも、私は、この怒涛に交差した世界線がある一点へ、きっと舞台も客席もない世界へ収縮していく中で、絶望したりはしませんでした。

 

混乱と混沌が過ぎ去った後、最後の言葉は最初に聞いた時よりも立体的に響きます。

 

そしてこの台詞は、浮かび上がった彼の顔と共に心に鮮明に焼き付いて、今でも私の身体を駆け巡り、“立ち続ける”つま先を震えさせたりするのです。

 

朝日のような夕日をつれて

僕は立ち続ける

つなぎあうこともなく

流れあうこともなく

きらめく恒星のように

立ち続けることは苦しいから

立ち続けることは楽しいから

朝日のような夕日をつれて

ぼくはひとり

ひとりでは耐えられないから

ひとりでは何もできないから

ひとりであることを認めあうことは

たくさんの人と手をつなぐことだから

たくさんの人と手をつなぐことは

とても悲しいことだから

朝日のような夕日をつれて

冬空の流星のように

ぼくはひとり

 

MANKAI STAGE 『A3!』 〜SPRING & SUMMER 2018〜 2018/11/4@天王洲銀河劇場

主人公は、2人のリーダー。

周りを巻き込みながら成長していく春組リーダーの咲也と、周りに背中を押されながら成長していく夏組リーダーの天馬。

 

この対照的な2人がふたつのストーリーの中で対比的に描かれていました。

 

2人が対峙するのは、寮の廊下ですれ違う場面だけ。

先に春組の公演を成功させた咲也のリーダーとしての振る舞いが、天馬にとっての「正解」にはなり得ないことを示す印象的な場面でした。

 

2人はそれぞれのチームの中で、それぞれにしかできない形で、かけがえのないリーダーに成長していきます。

 

その集大成が劇中劇。

意外に見応えのある物語の中で、チームの成長をまじまじと見せつけられました。

開演のベルがなった瞬間、天王洲銀河劇場はMANKAI劇場に、私はその劇場を埋める客の1人に、景色が変わって見えます。

次元や空間を越えるような感覚に心が震えました。

 

 

本当は“カントク”としてこの世界に関わることができるような仕掛けになっているのですが、客席中に「カントク!」と呼びかける演出の中で、“カントク”に成り切ることは私には少し難しかったです。

 

“カントク”を概念ごと抹消してしまうと真澄くんのアイデンティティが根こそぎ奪われることになるので、このカントクの残し方は最善策なのかなぁと思います。

 

カントクがいない世界線では真澄くんは左京さんあたりに一目惚れするのでしょうか。

後々めちゃくちゃややこしくなりそうですが、それはそれでめちゃくちゃおもしろいですね。

 

シトロンの忠誠のキスは支配人か、物語的には咲也くんに注がれるのが無難でしょう。

大和さんのシトロンなら当たり前にスマートにやりそうです。

 

 

今回特に楽しみにしていたのは、古谷大和さんと本田礼生くんの共演でした。

 

組は違えど、この2人が舞台の上で顔を合わせてはしゃぐ姿を見るのは、本当に本当に嬉しくて、そして考え深いものがありました。

 

シトロンを演じる大和さんも、三角を演じる礼生くんも、癖のあるキャラクターながらその自由さを活かし、細かな遊びをたくさん入れていて見ていて楽しかったです。

 

 

MANKAIカンパニーを守るために、左京さんから提示された条件の一つが、「春組の公演を行い千秋楽を満席にすること」でした。

 

簡単に叶ってしまったそのハッピーエンドと、それを簡単にチケットがソールドアウトしたこの舞台の上でやられてしまったことに、報われないなぁと思いました。

 

半分も埋まらない客席とそれを埋めるために招待客が集められた舞台も

特典に握手をつけなければ売れないチケットも

アフタートークの為に呼ばれた出演者ではない役者達も

早々に買い揃えた公演のチケットをさらに買い足して友人に配る私も

 

そんな薄汚れたリアル、現にチケットが売れているという説得力まで持ってしまったキラッキラッのファンタジーの前じゃ、全く歯が立たないですね。

 

 

例えば同じ役者で、同じ演出家で、同じ脚本家で、同じ“劇団”が題材で、オリジナル作品だったら、亀田さんの本なんだからおもしろくないわけないし、誰かにとっては生涯忘れられないくらいの舞台になっていたかもしれない。

でもそうしたら、6月から11月までのロングラン公演も京都公演も組まないし、天王洲銀河劇場は毎回満席になんてならないし、千秋楽ライブビューイングは行われないし、オランジーナはスポンサーにつかなかったでしょう。

 

おもしろい演劇を作れば、役者が観客を楽しませようと頑張れば、客席が埋まるなら、私が見てきた空席はもっともっと少なかったはずです。

 

 

 

この、MANKAI STAGE 『A3!』が、エーステで初めて演劇を観た人や、2.5次元舞台しか観たことがない人の、他の舞台へ足を運ぶきっかけとなることを願っています。

推しの初主演と向き合った日の記録・演劇集団イヌッコロ「オタッカーズ・ハイ」

日本一地味な若手俳優だと思っていた我が推し、星乃勇太さんが初めて主演を務めた作品、イヌフェス第3弾 演劇集団イヌッコロ Showcase vol.6「オタッカーズ・ハイ」が先日無事に全公演を終了しました。

 

今まで舞台に通う中でこんなに、「無事に幕が開いて、無事に幕が閉じますように」と願ったことはないくらい。

某さんの“いっぱくふつか”に便乗して竹島の神社で成功祈願まで行いました。

前売りチケットはほとんどsold out、小さな劇場だけれど毎回満席になって本当に良かったです。

 

 

芝居に関しては、わたしはある時期から星乃さんに絶対の信頼を置いているので、主役を演じるということも不安は全くありませんでした。

しかしそれ以外の面、座長挨拶とか、現場の雰囲気作りとかも座長がやるのかなぁとかはもうめちゃくちゃ心配していました!少しでも星乃さんを知っている人なら、得意じゃなさそうなの分かると思いますが。

今回は座長といえど、演劇集団イヌッコロにゲスト俳優として呼ばれた形だったので、その点は良かったのかなと思います。

座長挨拶なんて、残り3公演でようやく始めましたから。

心配を他所にうまいことやってくるだろうと思っていましたが、思っていたよりもぜんぜんダメでしたね!!

しどろもどろで共演の役者に「締めんの下手だな!」と言われていたのには笑いましたが、作り込んでこない挨拶に、星乃さんがこの空間を少なくともアウェイとは思っていないことが伝わって少し安心しました。

 

 

オタクを甘やかさないことに定評のある星乃さんですが、今回はかなりファンを意識して行動していたように感じます。

祝い花のプレートにサインやメッセージを書いてくれたのは初めてですし、物販のランダムチェキも毎日撮ってかなりの枚数に落書きしたりシールを貼ったりしてくれていました。

祝い花との2ショットをランダムチェキに混ぜオタクを混乱に貶めたのは、優しさが暴発した感じでめちゃくちゃ可愛いです。

2年前「ご町内デュエル」の際の、容赦無く自分の顔をぶった切った祝い花コラージュ画像に続き、新たな伝説が生まれました。

 

 

「オタッカーズ・ハイ」は、オタク研究会が部の存続をかけ学祭でアイドルライブを企画し、成功させるために奮起する物語です。

アイドルにドタキャンされ唯一の女子部員・堤を替玉として立てたことによる勘違いが生むコメディであり、部の後輩である堤と主人公・柳井の成長物語でもありました。

先輩たちの底力や堤の変化を受けて柳井が成長していく姿は、今まさに上昇途中の星乃さん自身の姿にも重なりました。

 

星乃さんも言っていたように、柳井は人の行動を受けての芝居が多い役でした。

そして観客の感情は柳井が見せる感情によって定義されます。

そうやってある意味柳井によってオタ研に振り回され、その柳井の底力に驚かされ、成長に泣かされる物語はとても気持ちよかったです。

 

小劇場の、本当につま先に舞台があるような劇場で芝居を観ることができたので、表情も声も汗も堪能することができました。

定評のあるコミカルな芝居も、メインになる時とサブになる時の緩急があって、それぞれの場面で最大に面白い表情を見せてもらいました。

 

そんな中で1番心に残ったのは、オタ研を守ろうと自治会会長に土下座をする場面です。

喜怒哀楽では分けられない微妙な表情からその心情がありありと読み取れて、心にツンときます。

何もできなかった柳井が、がむしゃらな脱皮を見せる温かい場面です。

 

 

柳井が変化を見せる最初のきっかけとなるのは堤の変化でした。

チームAで堤を演じた伊藤佳織さんは、彼女の芝居が作品全体の雰囲気を押し上げてしまうような、細やかでパワフルな芝居が印象的な役者さんでした。

伊藤さんが今作の堤役で良かったです。

 

客席のオタク達の共感を呼び涙を誘ったのは、チームBニトリ役の岡田武義さん。

オタ芸の技が群を抜いているのと、「杏奈が1番 みんなの1番」「届け 杏奈」という叫びが同じオタクとして心に突き刺さりました。

 

 

 

「楽しかったです」

千秋楽の挨拶で星乃さんのその一言を聞いた途端、なんだかひどくほっとしてしまいました。

星乃さんが自身の初主演と向き合っていたのと同じように、わたしはわたしで“推しの初主演”と向き合っていたみたいです。

 

そういえば星乃さんは、ニトリのオタ芸を好きな場面で挙げていました。

名前を叫ばれる側の星乃さんがこの場面を選んだのは、いつも叫ぶ側にいるわたしからしたら少し意外でした。

劇中ではライブの後、杏奈はニトリに「ニトリさんの声、聞こえたよ」と伝えます。

 

星乃さんの名前も叫ばれてるんだよ、知ってるかなぁ。

声、聞こえているかなぁ。

 

「おとぎ裁判」2018年9月27日-10月7日 俳優座劇場

裁判を傍聴したことがあります。

決められた書面を読むだけの裁判官、突っ立ってる被告人、反論のない弁護士。

静かな法廷の中で、役所の事務手続きのように人は裁かれていく。

この時、目の前の被告人がひとつの人生を背負った“現実の人間”ということも忘れて私は思いました。

 

なんて退屈な茶番劇!

 

 

おとぎの国で、住人たちは「伽」と呼ばれる自分の主君を愉しませる為に裁判を開きます。

 

伽は刺激を求めている。

 

おとぎの国、灯火の館キャッスル・トーチの主で裁判官のアケチも、幼馴染で犬猿の仲の弁護人と検察官ブルーとロブも、それぞれの伽の為に裁判を開き、歌い踊り、時に自分を追い詰めてそのヒリヒリした姿を晒してみせます。

伽が求める刺激的な「真実」の為に、彼らは裁判を演じるのです。

 

思えばおとぎ話の登場人物達も、時に随分と残酷な目に遭います。

お腹に石を詰められ水の中に沈められる狼、暖炉の炎に焼かれる魔女、両足首を切り落とされる少女…

刺激に慣れ、退屈に飽きた自分の姿が、うっすら伽に透けて見えました。

 

館の執事ジュードの呼びかけと、メイドのメロディの導きで、私達は“トーチ”としておとぎの国の住人となります。

 

爛れた蝋燭がふわりと香り、鮮やかな衣装が舞うノスタルジックな裁判所、薄暗い傍聴席にはトーチの焔。

おとぎの国は、その残酷さや抱えた秘密を隠すように、軽やかで美しい世界でした。

 

「裁きは華やかでなくては!」

 

 

ここからは、ネタバレも含めた感想となります。

 

おとぎ裁判は、「ストリップ学園」いちご役でお馴染みのロッキン・ヨーコさん演じるメロディが“現実の世界”の扉から現れて始まります。

メロディちゃんがレコードに針を落とすと、六本木の俳優座劇場は「おとぎの国」となるのです。

 

メロディちゃんは、自己否定キャラの上に成り立ったグラグラの自己肯定がおもしろいキャラクターでした。

無理矢理にでも自己肯定がないと生きていけない強さと弱さが、メロディちゃんには(そしていちごちゃんにも)ありました。

 

そして、彼女が司る「現実への扉」

六本木俳優座劇場の5列目と6列目の通路の先、下手側にある扉です。

おとぎの国の住人が“現実の世界”へ戻る時にも使われて、私達もそこから客席内に出入りします。

現実と虚構が混ざったその扉に心が踊りました。

 

 

最初の被告人はラプンツェル。訴えたのは通りすがりの王子です。

このラプンツェル、本人たちは1人だと言い張るのですが2人だし。本人たちは美女だと言い張るのですがおっさんだし。1人は髭だし。

出落ちとも思えるビジュアルインパクトですが、不思議と見れば見るほど味が出てきておもしろいです。

 

村井雄さんの演出には、初見はポカンとしてしまっても、回数を重ねる毎に堪らなく楽しくなってきてしまう魔法があります。トリックは謎ですが、1回しか観劇しないのは本当に勿体ないです。

 

話を戻します。

 

演劇において、どんなに髭面でもおっさんでも筋肉質でも、乙女なお姫様だと言われたらお姫様だと認識できるし、そう見るべきだと思っています。

まあ彼らは筋肉質なおっさん2人であったのですが(多分…?)、この後“14歳の少年”が麗しい乙女「赤ずきん」として登場する舞台で、ラプンツェルと見ていいのかおっさんと見ていいのか分からないこの混乱はおもしろいなと思いました。

 

 

「大人はみんな嘘つきさ」

 

赤ずきんを演じるのは、古賀瑠くんという14歳の男性の役者さんで、観客はそれを承知の上で、彼に“麗しい乙女”という役割を押し付けます。

 

裁判も終盤、次々と「真実」が明らかになる中、証言台に赤ずきんが現れました。音楽と共に始まった彼(女)のタップダンスは、今まで多くを語ることのなかった赤ずきんが心情を吐露するように激しくなります。

言葉より赤ずきんの心境を表した、心に迫る場面です。

 

そして、赤ずきんは、舞台の上で“14歳の少年”に戻ります。

 

その瞬間、おとぎの国に現実の穴がぽっかり空いたように感じました。

これだけ世界観を作り込み、想像力で創りあげた「おとぎの国」を敢えて壊すことで、「真実」は衝撃的に姿を現したのです。

 

 

通りすがりの王子、そしてドローを演じる小林健一さんは、「マグダラなマリア」のコバーケンぶりにお目にかかりました。

言葉ではうまく言い表せないのですが、動くだけでおもしろい人です。

おとぎの国のスパイスとなっていました。

 

 

ロブとブルーは、幼馴染でライバル同士の検察官と弁護人です。

芹沢尚哉くんの「ベイベェ」(胸にずっしりバージョン)は、胸がざわざわするような気持ち悪さがあります。

いけすかないけど憎めないです。好きです。

ブルーには「グレン」という女性人格があり、時々発作のように入れ替わります。

古畑恵介さんのグレンっぷり、綺麗でやり手のお姉様っぷりには化け物かな?と思いました。

 

 

東拓海くん演じるジュードは、私達トーチに語りかけてくれる優しい(?)執事さんなのですが、その笑顔の底に何か恐ろしさを感じます。

ジュードの裏の顔は後に判明するのですが、それだけではなくて、理解できない怖さがジュードには、というか、東くんにはありました。

「ジュードのJ!」で全力海老反りとか意味分かんないですから。怖っ。

 

普段のジュードが普通にアケチさんのことが大好きな様子も、裏ジュードの暴力性と全く相反していて、ジュードの本質ってどこにあるの?と不安に思いました。

願わくば、アケチさん大好きのジュードでいて欲しいです。

「たまには一緒に寝るか?」とアケチさんに言われてソワソワキャッキャってするの、はちゃめちゃ可愛いから。

 

 

そんなジュードに死ぬほど愛されて眠れない(?)主人公アケチを、古谷大和さんが演じます。

登場シーンの大半が寝不足で不機嫌なアケチさんですが、ポップな曲がかかるとキラキラ笑顔を振りまく姿がスーパーキュートでした。

特に「洗濯ジョイ」の曲が、アケチさんは後方で踊っているにも関わらず、客席までキラキラが飛んできそうなほど可愛いです。

 

アケチの見せ場といえば、2幕「真実」を明らかにしていく場面でしょう。

心優しい狼に、冷酷な赤ずきんに、真実をただ淡々と述べる語り手に、そして、炎に焼かれるアケチ自身に。その表情は変幻自在に入れ替わります。

朗読劇の時も思うのですが、大和さんの小細工のない素直な語りはとても魅力的です。

 

 

アケチ、ブルー、ロブは「キラー」と呼ばれ、それぞれの「伽」の退屈を殺す役割があります。

キラーにとって伽は絶対君主。逆らうことは許されません。

 

ロブの伽相手は、ブルーの別人格グレンでした。

グレンがブルーに戻った後のロブのホッとしたような表情や、急にたどたどしくなるナルシストな発言に、ロブの素直さや優しさが見えます。

 

ジュードはアケチの執事として登場しますが、1幕の終わりでアケチの「伽相手」であることが判明します。

主従関係が入れ替わった途端、子供のように必死さを見せるアケチと、穏やかな表情から一変して苛立ったようにアケチを追い詰めるジュード。

アケチが縋るようにジュードを見詰める姿が堪らないです。

2幕では彼らが目配せをするだけで、2人の間の張り詰めた空気を感じます。

 

それが秘密であればあるほど、伽とキラーの関係性は、耽美でエロティックなものになっていました。

 

 

想像し、壊し、導かれ、突き放され、惹きつけられ、おとぎの世界は創り上げられていました。

この世界には、まだまだ暴かれていない「真実」がたくさんありそうです。

秘密を抱えたモノは美しいけれど、暴かれる瞬間も激しく美しく輝くでしょう。

 

グータラでやる気ゼロの裁判官」と言われながら、アケチの瞳は常に“なにか”を見詰めて黒く光ります。

それは”現実の世界“なのか”おとぎの世界“なのか、他者なのか自分自身なのか、アケチの姿はまだ、蝋燭の煙の向こうに隠されたままです。

彼は、光の方を見ているのでしょうか?