キイロイ

星乃勇太と宇宙人アイドルと

おん・すてーじ『真夜中の弥次さん喜多さん』三重 2018/6/23マチネ@シアターGロッソ

弥次さんによって撲殺されてしまった喜多さんの心臓の鼓動を取り戻す旅を描いたハートフル(?)ラブコメディ。

笑って観ていた茶番劇がだんだん笑えなくなってしまう。たかが演劇と思っていたものが、だんだん私の「リヤル」に重なってしまう、そんな怖さがありました。


弥次さん喜多さんが旅をする「ペラペラのお江戸」

得体の知れない生物、脈略の無い言葉、天と地は簡単にひっくり返り、死んだり生き返ったり戻ったりを繰り返す世界。

特に前作はグロテスクなシーンが多く、ほんの数十分前までの穏やかな旅路から、戻ることも進むこともできず過ぎて行く時間に吐き気を伴うほどの気持ち悪さを感じました。


ただ、今作の恐怖は少しかたちが違います。

むしろ、前作で感じた怖さや気持ち悪さは、単なるカタルシスだったのだと思うほど。

今作の恐怖は完全に「観客」である私たちへ向けられ、今私が実際に立つこの地面を恐ろしく不安定なものにしました。


否、この作品によって不安定になったのではなく、私にとっては青春時代に直撃した「3.11」から、ずっと抱いていた世界への不安を思い出させたのです。


分かりやすく描いたのが、おかまの熊さんがいる半分海に浸かったシーサイドインでした。

昔に戻ることが最良だと喚く老人、無責任な優しい言葉に縋る若者。

刻々と迫る大地震より、トレンドの海老が描かれたバックを持っているかどうかの方が重要な問題です。

結局、大地震によって宿が丘の上に戻ることも、明るい未来が訪れることもなく、さっきまで歌ってた人も呑んでいた人も祈ってた人もみんな海の底に「どぼん」と沈んでしまいました。

相変わらず、この世界ではさっきまで生きてた人が簡単に死にます。そこには「人が死んだ」以上も以下もなく、事実と死体だけ転がって。

「死」へのオーバーリアクションが無いことは、毎日どこかで誰かが死んでいる私たちの世界にとって、むしろ自然な反応に感じます。

どんなに道徳を説いても、テレビの向こうの殺人より、舞台上のアイドルの方が、私にとっての「リヤル」です。


「ふらわああれんじめんと」は甘い言葉と優しい視線をくれるアイドルではなく、ただの綺麗なお花でした。

誰かにとって都合が良いから、何より私がそうであって欲しいと望むから、今日もお花は舞台の上で微笑みます。


手の届く場所にあるものが「リヤル」なら、私の「リヤル」はやっぱり現実の生死より、今まさに目の前の舞台上に拡がる虚構だと、どうせそうだろう?と、万ジョン次郎の叫びは現実の、客席に座る私たちにストレートに投げつけられました。


茶番は終わるものだと弥次さん喜多さんは言うけれど、旅の途中で突然放り出されてしまう私や万ジョン次郎は、そんなに潔く割り切れません。


「おん・すてーじ『真夜中の弥次さん喜多さん』三重」の壮大な茶番劇は、その先にあるものを示しつつ、一列に並んで、一礼をして、幕を閉じました。


2次元と2.5次元、仮想現実が溢れる世界で、一体なにを「リヤル」とするのかい、と、私たちに投げつけたまま。


そういえば、喜多さんの心臓の鼓動は、弥次さんの愛の言葉によって蘇りました。


生きていて心臓も動いている人なんて、もしかしたらそんなにいないのではないでしょうか。

止まっているのに動いていると錯覚しているかもしれないし、鳴っているのに聞こえていないかもしれない。


私のおクスリはまだ抜けないし、心臓の鼓動も聞こえないままです。