STAGE THE WORKOUT「朝日のような夕日をつれて」Mver. 2018.11.10-本所松坂亭劇場
終盤に差し掛かるにつれ、役者達の汗が感染るように、果たして汗を流しているのは舞台の上の役者なのか私なのか分からなくなっていました。
怒涛の台詞は直接心臓にぶつかって、その衝撃で溢れるのは笑顔かもしれなかったし涙かもしれなかった。
しりとり、2020東京オリンピック、はじめてのチュウとアナと雪の女王とUSA、熱血ボウリング青春ミュージカル、客席で配布されるお茶のティーバック、突然発射されるスモーク
混沌の世界に振り回されながら、少しずつ少しずつ、その混沌は暗くて深いものに変わっていきます。
4人の大人の中で、舞台を滅茶苦茶に壊して散らかしていた「少年」は、いつの間にか世界を牛耳る存在になっていました。
舞台から溢れる熱の洪水に溺れる中で、彼の言葉に手を引かれて、自分の形を認識する場面が何度もありました。
暗転。
舞台から客の一人一人に伸びていた糸がブツンと切られて、客席照明の中で私は疲労感に包まれるのです。
「少年」を演じたのは、齢21歳の東拓海くんです。
少年はいつもとても無邪気に登場します。
「混ぜてよ」「遊んでよ」「構ってよ」と、屈託のない笑顔で、心底はしゃいで。
少年には過去も未来もなくて、ただひたすらに今を生きているようです。
しかし、高いテンションで矢継ぎ早に繰り出される、出鱈目に組み替えられた時事ネタも、まるでその先が予想できない行動もおもしろいのに、心から愉快な気持ちになれない気持ちの悪さがありました。
その無邪気の向こうに、得体の知れない恐怖があるような気がしてならないのです。
それは、私が何年も人間社会のコミュニティの中で生きることによって植えつけられた社会性や常識を超越してしまったモノへの恐怖に感じます。
「少年」は「医者」へ「E」へとその役割が変化していきますが、「少年」の底に沈んでいた恐ろしさが湧き上がって変わっていく、自然で見事な豹変でした。
東拓海が持つ天性の「サイコパス」感が、知れずと役にその裏側を匂わせるのでしょうか。
トークイベントなどで見る限り、なんだかトボけた好青年って感じなのですけどね。
私がこの舞台を観劇した理由は、かつての小劇場ブームを代表する劇団のひとつである「第三舞台」の演目への興味もありましたが、第一は『おとぎ裁判』でジュードを演じた東拓海くんの芝居をもっと観てみたいと思ったことでした。
ジュードがとても好きだった分、別の舞台で彼を観ることに不安もありましたが、観劇して心底、この舞台に立つ東拓海を観ることができてよかったと思います。
「なにが、出番は少ないけど物語の要になる役だからだ!」
「なにが、未来の小劇場界を担う東くんにぴったりの役だからだ!」
と喚く姿にはめちゃくちゃ笑ってしまいましたが、彼が担う小劇場界の未来を、私も見てみたいと思ってしまいました。
Facebookが存在しない世界から存在する世界へ、2018年の私たちは、生活環境の変化に対応する為の進化を遂げた人類です。
ソーシャルネットワーキングサービスが人間関係を希薄にしたわけではない。
かといってそれが、人間の結びつきを強めたわけでもない。
手紙が生まれても
電話が生まれても
ポケベルが生まれても
メールが生まれても
mixiが生まれても
決して何者にもなれない私たちの、でも絶対に自分が唯一の価値ある人間だという自意識は膨れ上がり、SNSでの拡散が続けられます。
私が私であることを失くさない為に、考えるという行為を止めることができず、大量の人間と簡単に繋がれる世界の中で、やはり私は”ひとり”になっていくのです。
倒産寸前のおもちゃ会社が開発した究極のゲームは、ノスタルジィの世界で自己を全肯定する存在「ソウルメイト」を探すVRゲームでした。
精度の良いVRゴーグルと莫大な個人データで桁違いの没入感を持つゲームが生まれると、興奮気味に語られるその”おもちゃ”に私は胸騒ぎを覚えました。(そしてこの胸騒ぎは、このゲームを与えられたみよ子が遺した言葉によって確信に変わるのです)
誰からも傷つけられないことを、誰からも否定されないことを、自意識が完全に守られることを、生きる目的が示されていることを、望んでいるはずなのに、それがバーチャル世界で叶うとなると否定したくなるのは何故なのでしょう。
また得体の知れない未来が自分の手と関係のない場所で作られてしまうことに怯えるのでしょうか。
この演目の初演は1981年だそうです。
その後、何度も再演が繰り返されていることも聞きました。
どんな時代背景に生きた人間も、少なくとも、敢えて小さな劇場で小難しい演劇を作りたい、観たいと思う人間の、思想の根底にあるものは変わらないんだなと思うと不思議に感じます。
ゴドーは来ませんでした
「みよ子」は遺書を残していきました
でも、私は、この怒涛に交差した世界線がある一点へ、きっと舞台も客席もない世界へ収縮していく中で、絶望したりはしませんでした。
混乱と混沌が過ぎ去った後、最後の言葉は最初に聞いた時よりも立体的に響きます。
そしてこの台詞は、浮かび上がった彼の顔と共に心に鮮明に焼き付いて、今でも私の身体を駆け巡り、“立ち続ける”つま先を震えさせたりするのです。
「
僕は立ち続ける
つなぎあうこともなく
流れあうこともなく
きらめく恒星のように
立ち続けることは苦しいから
立ち続けることは楽しいから
ぼくはひとり
ひとりでは耐えられないから
ひとりでは何もできないから
ひとりであることを認めあうことは
たくさんの人と手をつなぐことだから
たくさんの人と手をつなぐことは
とても悲しいことだから
冬空の流星のように
ぼくはひとり
」