「超歌手」大森靖子
読んだだけで心が軽くなるような言葉は、結局耳障りが良いだけだ。
私はこの本を発売日でも給料日でもない日に買った。
なんでも無い日だった。
でも、何か無いと、私を新しく支えてくれる何かが無いと、もう家にたどり着けないと思って、仕事の帰り道に本屋へ駆け込んで購入した。
本当は新しく発売したアルバムを買うつもりだったけど、帰り道に無いCDショップへわざわざ行く程の気力も無かった。
彼女の言葉は私の薬だ。
無くて平気なときもある。
推しと会ってから数日は、現実はいつも通りクソだけど、思い出はまだ甘いし、スピッツとか聞きながら幸せに浸れる。
最高。
今までは本命の現場前とか現場中の情緒不安に彼女の言葉を使っていたけれど、最近それどころじゃない程人生がクソでクソで、頑張って情緒安定させてやっと落ち着いた2秒後に平気で最低なこととか起こりまくってて、そんなことが一ヶ月に何度も何度もあって、ようやく折り合いつけて乗り越えてもぜんぜん無意味で、なんでちゃんと歩けてるのか分からないような状態でこの本を買って読んだ。
倒れないで、って支えてくれるというより、もういっそ倒れちゃおーよアハハー!!!!!!って笑ってくれる本だった。
私は呪いと闘おうとしていたみたいだ。
仕事だから好きな服も好きな髪もできないとか
好きでもない人との好きでもない飲み会に出ないといけないとか
ハタチ超えてキャラもの持つのはイタいとか
若手俳優のリア恋に向けられる偏見とか蔑みとか
男とか女とか年齢とか容姿とか
そういうのぜんぶ呪いだった。
私、良い子だったし変に器用だったりするから、うまく闘えなくて折り合いつけたり「まあこんなもんかな」とか思って生きてきたけれど、違和感は喉につっかえてどんどん硬く大きくなっていた。
推しは私の気道をこじ開けてくれるからそれで呼吸して、まだ大丈夫って思って、
でも、逆に私の気道に異物を詰め込んでくる奴もいるし、それどころか自ら詰め込んでしまうときもある。
靖子ちゃんはまず、私の喉に詰め込まれた異物を、こんなに取るに足らないものだよーって吐かせてくれた。
そして、彼女の闘い方を示してくれた。
靖子ちゃんの言葉はめちゃくちゃだけど重かった。
生きている人の生きたままのどろどろの言葉。
砂とか宝石とか汗とかラメとか血液とかいっぱい混じった泥水。
泥水を浴びながら、私は靖子ちゃんじゃないから、彼女の闘い方を模倣しても意味がないと思った。
闘わなければ楽だけれど、そうしたら私は本当に窒息死してしまうだろう。
私は私の闘い方を探して作って選んでいかなければいけない。
だから私の体は重い。心も重い。クソ重い。
でもたぶん、それが生きているってことだ。
おん・すてーじ『真夜中の弥次さん喜多さん』三重 2018/6/23マチネ@シアターGロッソ
弥次さんによって撲殺されてしまった喜多さんの心臓の鼓動を取り戻す旅を描いたハートフル(?)ラブコメディ。
笑って観ていた茶番劇がだんだん笑えなくなってしまう。たかが演劇と思っていたものが、だんだん私の「リヤル」に重なってしまう、そんな怖さがありました。
弥次さん喜多さんが旅をする「ペラペラのお江戸」
得体の知れない生物、脈略の無い言葉、天と地は簡単にひっくり返り、死んだり生き返ったり戻ったりを繰り返す世界。
特に前作はグロテスクなシーンが多く、ほんの数十分前までの穏やかな旅路から、戻ることも進むこともできず過ぎて行く時間に吐き気を伴うほどの気持ち悪さを感じました。
ただ、今作の恐怖は少しかたちが違います。
むしろ、前作で感じた怖さや気持ち悪さは、単なるカタルシスだったのだと思うほど。
今作の恐怖は完全に「観客」である私たちへ向けられ、今私が実際に立つこの地面を恐ろしく不安定なものにしました。
否、この作品によって不安定になったのではなく、私にとっては青春時代に直撃した「3.11」から、ずっと抱いていた世界への不安を思い出させたのです。
分かりやすく描いたのが、おかまの熊さんがいる半分海に浸かったシーサイドインでした。
昔に戻ることが最良だと喚く老人、無責任な優しい言葉に縋る若者。
刻々と迫る大地震より、トレンドの海老が描かれたバックを持っているかどうかの方が重要な問題です。
結局、大地震によって宿が丘の上に戻ることも、明るい未来が訪れることもなく、さっきまで歌ってた人も呑んでいた人も祈ってた人もみんな海の底に「どぼん」と沈んでしまいました。
相変わらず、この世界ではさっきまで生きてた人が簡単に死にます。そこには「人が死んだ」以上も以下もなく、事実と死体だけ転がって。
「死」へのオーバーリアクションが無いことは、毎日どこかで誰かが死んでいる私たちの世界にとって、むしろ自然な反応に感じます。
どんなに道徳を説いても、テレビの向こうの殺人より、舞台上のアイドルの方が、私にとっての「リヤル」です。
「ふらわああれんじめんと」は甘い言葉と優しい視線をくれるアイドルではなく、ただの綺麗なお花でした。
誰かにとって都合が良いから、何より私がそうであって欲しいと望むから、今日もお花は舞台の上で微笑みます。
手の届く場所にあるものが「リヤル」なら、私の「リヤル」はやっぱり現実の生死より、今まさに目の前の舞台上に拡がる虚構だと、どうせそうだろう?と、万ジョン次郎の叫びは現実の、客席に座る私たちにストレートに投げつけられました。
茶番は終わるものだと弥次さん喜多さんは言うけれど、旅の途中で突然放り出されてしまう私や万ジョン次郎は、そんなに潔く割り切れません。
「おん・すてーじ『真夜中の弥次さん喜多さん』三重」の壮大な茶番劇は、その先にあるものを示しつつ、一列に並んで、一礼をして、幕を閉じました。
2次元と2.5次元、仮想現実が溢れる世界で、一体なにを「リヤル」とするのかい、と、私たちに投げつけたまま。
そういえば、喜多さんの心臓の鼓動は、弥次さんの愛の言葉によって蘇りました。
生きていて心臓も動いている人なんて、もしかしたらそんなにいないのではないでしょうか。
止まっているのに動いていると錯覚しているかもしれないし、鳴っているのに聞こえていないかもしれない。
私のおクスリはまだ抜けないし、心臓の鼓動も聞こえないままです。
おっさんずラブ 2018/4/21~2018/6/2 @おうち
楽しかったですね。
最終回放映後はじめての日曜日、澄み渡る青空に包まれて世界はキラキラしていました。
ジェンダー論とか伏線回収とか読唇術とか、たくさんの人が考察をしてくださっているので、ここにはわたしの感想だけ記録しておこうと思います。
因みにわたしは7話をその晩のうちに2周観ましたが、「巨根じゃダメですか?」の伏線回収しか分かりませんでした。伏線なのかあれは…?
この物語では主人公の春田創一が、部長に同僚に幼馴染に恋されるということでしたが、なんで春田?とは思わせない力がありました。
春田がどんな人なのか言葉にしてしまえば、ダメなとこの方が多いんですよね。
牧も「悪いところ」なら10個すぐに言えてたし、部長もラブレターに「バカで」って3回も書いていたし。
部長はもっとはるたんに盲目的な恋をしているのかと思っていましたが、10年も恋をするとたくさんの欠点も「可愛すぎるぅ~」に集約されてしまうのだなと思いました。おっさんのラブは深いっすね。
それでも、彼が人に好かれることには、充分過ぎるほど説得力がありました。
春田の美点とされるところを言葉にしてしまうと安っぽくなってしまうのですが、本能的に人間が惹きつけられる理由を持っている人です。
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彼の顔って、思惑のない彼の心を象徴してるかのようにピュアなのだ。(中略)がっしりとした体に、悪気のない表情を載せている男の子ってあまりいないものだということに最近、気がつき始めていた。
山田詠美/放課後の音符(キイノート)
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これは、私がこの世で1番好きな「男の子の描写」のひとつです。
春田にも、こういう、大人になってしまった男の子女の子の「心のある部分を、きゅんとつねる」魅力がありました。
そんな春田に恋をする牧遼太。
目は口ほどに、どころか、音にできなかった言葉がポロポロと零れ落ちる宝石の瞳が、春田とは別の意味で観る者を惹きつけたのは言うまでもないでしょう。
牧が少しダボっとした私服を好んでいたことが気になっているのですが、どう解釈したら良いのでしょうか。
小柄な身体を少し大きく見せる為なのか、筋肉質な身体を華奢に見せる為なのか。
伝説のバックハグ、春田の身体は言うまでもありませんが、盛り上がった牧の胸筋にもトキメキを覚えざるを得ませんでした。
そして、全人類が恋した武川主任。(※個人の見解です)
思い返せば脚ドンも、手を握るのも、顔が近過ぎるのも、傷口ふーふーも、指を絡めるのも、おデコとおデコで熱計ったりなんちゃったりも、壁にドーン!も、最後には手を握られちゃったりなんかして、「胸ギュン」場面のほとんどを武川さんが担っていたではないですか?!
牧が「マサムネ」と呼んだ瞬間、何故か私が、何故か武川さんにラブを持っていかれてしまったのは、いったい何力学の力が働いたのでしょうか。
付き合った当初の牧は武川さんがドヤっていたように、「アイツ俺がいないと駄目なんだよ」だったのでしょう。
春田に初めてご飯を作った時の「カロリーとかバランスが大事なんで」は、武川さんの受け売りなのではないでしょうか。
それどころか、実家暮らしだった牧が母から料理を学んだのも、武川さんの為だったのかなと思っています。
マサムネがいなきゃダメだった牧を愛を込めて育てあげ、マサムネも牧がいないとダメになった時、牧はマサムネの元を巣立っていったのです。
どっかのラブソングかよ…
最終的には若い2人の背中を押すことになった切ないおっさんずのラブ。
青空の下屋上の場面は良いシーンでしたね。
部長が春田との恋を最後から「5番目くらいかな」、と言っていたこと。たくさんの恋をしてきたのであろうおっさんに尊敬の念を覚えました。
とりあえず私は次に「隣の家族は青く見える」を観ようと思います。
マロも可愛かったです!
「はるた」を下の名前だと思って呼んでたところも、蝶子さんの為に背伸びして呑むウイスキーが強すぎて一口で「チェイサー」と言うところも可愛かったのですが、1番心に残ったのは、春田との屋上のシーンです。
牧に公開告白、言ってしまえばカミングアウトをした直後、春田の肩を抱いて「友達」として慰める。
このドラマの強さはこういうところだと思います。
ドラマでは恋愛のひとつのゴールとして「結婚」が描かれていました。
私個人としては、「結婚制度」への夢なんて「そうよお得になるからペアを組んだの」くらいにしか思っていません。
ただ、このドラマの「結婚」は、男同士という点で制度的なものではあり得なかった。
制度的な結婚については、早い段階で武川さんが懐疑的に扱っていました。
結婚制度を越えて、「結婚」を「好きすぎてヤバいからする」と捉えるマロ、条件に合う人を選んだちず、両方存在したことがおもしろかったです。
これは余談ですが、どこに挟むべきか分からなかったのでここに。
まいまいの貢ぎ癖を観ながら、身に覚えがありすぎて震えました。
まいまいの行動も「愛に形が欲しかった」ひとつの結果だと思っています。
戻ります。
春田は好きの最上級として「結婚してください」を叫びました。
この単純でまっすぐな可愛い春田の姿に、凝り固まった心と頭が柔らかくほぐされるようでした。
それにしてもカッコ悪い告白でしたね。
汗だくで、脱げた靴持って、動きも必死すぎて。
私は、それが恋愛でも友情でも、男同士の不器用で真っ直ぐな感情が縺れ合い、ぶつかり合うことにトキメキを覚えました。
(製作陣のインタビュー読む限り、「男同士」ではなく、「恋愛ドラマ」を、ということだったようなので、私の感想は意図とは違うのでしょうが。)
嘘の無い、吐いた息の生暖かさを感じるような男達の物語。
役者陣が魅せてくれた人間のカッコ悪さやカッコ良さは、喉が渇くほど愛おしいものでした。
「牧が好きだー!」
春田がそう叫んだ瞬間、大袈裟ではなく、雨は止んで雲は晴れて、青空が世界を包むの感じました。
牧の片思いも、1度も春田からの「好き」がなかった交際期間も、別れる時の嘘と涙も、別れてからの1年も、ついでに6話終了から7話ラスト10分までの鬱々とした私の1週間も、ぜんぶこの瞬間のためにあったのです。
牧も春田も顔をぐちゃぐちゃにして。
青空と2人の服の紅白が、そのまま私の幸せの色になりました。
そして、そんな幸せの色を引き継いだラストシーン。
春田に「マジでやめろって」と言われて下を向く牧と、そんな牧に気付く春田。
春田が牧の感情の機微に気付いた!と感動しましたが、春田はもともと気付かない人ではないと思います。
1話で、病院に運ばれた春田が無事だったことを知って表情を緩める牧に、「お前でもそんな顔するんだな」と言っていました。
むしろ牧の方が、春田に惹かれれば惹かれる程、春田に感情を見せないようにしていったのです。
よく考えれば、牧の切ない表情はいつも春田の背中に注がれていました。
(まあ、「春田さんのことなんか好きじゃない」をただ1人間に受けた春田だから、100%気がつくとは言い切れないけれど…)
あの幸せ色の場面は、もう我慢しないと決めた牧が、春田に感情を見せた牧の成長も感じました。
と、感動も束の間、悪戯に笑って牧押し倒す春田。
春田をそんな子に育てた覚えなくない?!
RICE on STAGE 「ラブ米」〜I'll give you rice〜 2018/4/21~4/30@品川プリンスホテルクラブex
美味しいごはんを食べた時、思うことはシンプルだと思います。
夢中で食べて、「ご馳走様でした」をして、心と体が温まっているのを感じる。
「RICE on STAGE ラブ米〜I'll give you rice〜」はそういう美味しいごはんのような舞台でした。
イナゴの危機から学園を救い、米米フレンズとして友情を結んだラブライス、ST☆RICE、GAZEN BOYSの前に、最強の敵であるフリーカが現れます。
この最大の危機を前に、あきたこまちはラブライスを飛び出してしまいます。そのうえ、GAZEN BOYSの2人はフリーカに洗脳され手下に、そして、アフリカから帰ってきたST☆RICEの3人も、後輩2人を残しフリーカへ付いていってしまいました。
バラバラになってしまった米米フレンズたち。
フリーカを倒し、日本の食文化を守ることはできるのでしょうか。
前作に増したパロディネタに、演出・村井雄さん手がける独特な世界観の演出が光ります。
稲穂学園に「未確認焼きそば飛行物体」が迫るという台詞に自分の耳を疑った後、おもむろに現れ客席を浮遊する“某インスタント焼きそば”を見た時の「マジか…」感は、きっと舞台を観ないと感じられないでしょう。
個人的に初日のインパクトが強かったのは、フリーカの登場シーンです。
天井から巨大な照明が降りてきて、大量に焚かれるスモーク。これでもかと思うほど焚かれるスモーク。客席に向けてだめ押しのように噴出するスモーク。観客の視界を容赦なく奪うスモーク。(さすがにDVD収録日は控えめになっていました)
リピーター客も多いラブ米ならではの「悪ふざけ」に笑うしかありませんでした。
そして、ラブ米の名物になっている「トカゲ」。今回は平山に加え、米フェスの際にアフリカへ行っていたST☆RICEのネリカ、トヨハタモチがトカゲとして客席から登場。
米がトカゲになるという意味の分からなさ、そして、「私たちはトカゲからカメレオンに進化したのです!」というセリフ。進化論めちゃくちゃだよ!
「意味わからない」もこれだけ立て続けに起こると、理解を通り越して納得してしまいます。米米キャストたちはこれを「洗農(洗脳)」と言っていました。噛めば噛むほど味が出るように、「洗農」されて本当の美味しさに気づくような舞台です。
コメディを言葉で説明しても仕方ないので、大人が真剣に悪ふざけするこの舞台に、必死で食らいついて「ハートフル米ディ」を作り上げた米米キャストの話をします。
主演ひのひかり役で、座長の田村升吾くん。
大げさではなく、彼がひのひかりだったからこそ、今こうやって RICE on STAGE 「ラブ米」は完成しました。
もっと経験があって器用な役者を使ったら、ラブ米の味わいは違うものになっていたのではないかなと思います。
ある意味では、彼の成長を追ったこの1年でした。
このとんでもない世界観の作品で、座長を若くて経験も浅い田村くんにした、その狙いがピッタリはまっていました。
パロディに溢れたコメディ舞台という側面と、若いキャストが体を張って全力で挑む姿。ラブ米がふたつのおもしろさを持ったのは、田村くんが座長だったからでしょう。
ガムシャラに気張っているように見えた初演と比べ、今作は頼もしく、そしてニコニコととても楽しそうな姿が印象的でした。
ひのひかりがラブライスやフリーカに訴える熱いセリフは、田村くんの人柄があってこそだったと思います。
そして、そんなリーダーひのひかりを支えるラブライス。
舞台上で何か起こると、佐野真白くん演じるにこまるとひのひかりはよく視線を交わしていました。
前作あまり目立たない位置にいたあきたこまちがこれだけ躍動したのは、白石康介くんの不思議な、良い意味で不可解な魅力ゆえでしょう。個性的な米米キャストの中でも、一番度胸のある役者だと思います。
ひとめぼれ役の前川優希くんは、輪を飛び出した自由な姿が多かった前作と違い、今作は輪の中でラブライスを支えていました。
彼も勇気ある役者で、ぐだぐだのアドリブ中に彼の一言が場を納める場面を何度も目撃しました。「あはっ」と声が聞こえてきそうな笑顔も素敵です。
ささにしき役の星乃勇太くん。星乃さんという安定した存在があってこそ、ラブライスは自由に個性を発揮できたのではないかと思います。
ささにしきの役柄もあって、冷静に縁の下で支えている印象が強かったです。
そんな影に徹しようとする星乃さんの「おもしろさ」を引き出そうと、兄鴨はいろいろ星乃さんをいじってくれました。
魅力的な穀物はたくさんあります。
パンは種類豊富で美味しいし、フリーカは栄養豊富で低カロリーです。
でも、この作品の主人公はお米です。
馴染み深くて、でも他国から入ってきた穀物や食文化に少し押され気味なお米です。
可愛くて一生懸命で愛おしい、ラブライスのキャスト達はお米を演じるのにぴったりな役者でした。
今回「ハーベストショー強化合宿」という、毎回窒息するほど笑っていた地獄の即興劇コーナーはありませんでしたが、兄鴨は遊べそうな時間を見つけてはキャストの裏話をして、米米キャストの魅力を伝えてくれました。
なかなかひやりとすることもありましたが、ラブ米らしくておもしろかったです。そして何より、自分は汚れ役を演じながらも、若い米米キャストを、ラブ米を盛り上げようとする兄鴨の愛を感じました。
ラブ米の物語はシンプルで熱いです。
バラバラになってしまった仲間取り戻して最大の敵を倒す。最後は敵であったフリーカすらも仲間として迎え入れる。
それまでの過程はめちゃくちゃだし、感動的なはずの場面だってそこかしこにギャグが散りばめられて素直に感動なんてさせてもらえません。
ST☆RICEの「1人より2人がいい、3人より5人がいい!」というセリフ。
ラブライスが学んだ「雑穀MIND」「異なる価値観、異なる宗教観を認め合い、一緒に食を楽しむ心」
本当に大事なことはこうやってシンプルなことなのかもしれない、と思わせる力がラブ米にはあります。ほとんど力技ですが、米米キャストたちが声を合わせて叫び、一緒に歌う姿を見ると、ほだされて一緒に炊き上げられてしまうのです。
これもある意味、「洗農」鴨ね。
舞台「モブサイコ100」の感想と2018年の推しのお話
舞台「モブサイコ100」2018.1.6-1.14@天王洲銀河劇場
の感想があまりにも捗らなかったので、後半はどうでもいい2018年の推しの話をしています。
中学生である主人公モブが「自分の個性」に向き合う青臭いストーリーと、濃いキャラクター達が織り成すギャグ要素を詰めたコメディ作品。
この際、
バトルシーンでモブと花沢の心情が逐一ナレーションや文字情報で説明される鬱陶しさも、
モブがやりたい事を問われて奮闘する物語の割に、やりたい事を見つけて行動するエクボも花沢もモブに潰されるという矛盾への疑問も、
取り敢えず置いておきましょう!
推しが3役を演じた、演じ切った!この舞台を語るには、それだけで充分です。
キャラクターがみんな過剰にステレオタイプなので、それぞれ見た目や言動のインパクトが強かったです。
その中で、星乃さんも負けじと、どころか意外に大ウケする濃いキャラの3役を演じていました。
最初に登場したのは徳川光。
ビジュアルだけ見た段階では、クールで堅物なキャラクターなのかと思ったら、それが行き過ぎてしまって神経質で粘着質で面倒くさい。
眉間にきっかり2本刻まれた皺、顔のパーツを落とすのではないかと心配になる程表情に現れる苛立ち。徳川は徳川で変人ながら、脳電部に混入した「異物」としてもしっかり役割を果たしていました。
クールな顔をして言動が行き過ぎるというのは、最近星乃さんが演じる役では多いタイプです。
安心して見ていることができた分、恐らくこの役だけでは物足りなかったと思います。
次に登場したのは、(笑)の信者1。
この役は共演者にやたらとウケてて、そのおかげで(?)客席からもけっこう信者1の話をする声が聞こえてきた気がします。
軟体動物のような自由で脈絡の無い動き、もはや日本語には聞こえない話し方。1度見たら忘れられないインパクトの強い役でした。
とにかく動いてブリッジまでした挙句お面を取ったら後はずっと笑っているものだから、珍しく星乃さんも汗だくで演じていました。
笑うとスーパーキュートな星乃さん。
手を合わせて奥様のように頷いたり、ヒヒ丸さん演じる信者の腕にしがみ付いたり。
…どういった演技プランだったのかな。
せめて信者1が男だったのか女だったのかだけでも聞いてみたいです。
そして、黒酢中学校の番長枝野。
ずーっと顎が出てる。
立っても座っても顎が出てる。
転がっても喋っても逃げても顎が出てる。
顎が出てる…
銀河劇場は広いのでオペラグラスで観た時もあるのですが、ずっと見ていると星乃さんっていったい誰だろうという気分になります。
髪型が信者1と同じだったから、変化をつけるために顎を出したのかしら。
星乃さんのこんなに弱くてダサい役を見るのも初めてで、新鮮ではありました。
2018年推し初めは、星乃さんの顔を見るには出番が多くて良かったです。
が、同時期に2018年を代表するようなおもしろい舞台が2本もかぶっていたものですから。作品どうだった?と聞かれたら、えぇとても退屈でした。
2017年、星乃さんの出演作は「孤島の鬼」以降ドルステを除いたらすべて2.5次元作品でした。
2.5次元作品がぜんぶ嫌とは言いませんが、(ラブ米は楽しかったし)求められる役も同じような感じだったし、もっと人間っぽい役をやって欲しいなぁというのが2018年の希望です。
息は温かくて、触れたら柔らかくて、切ったら血が流れて、そういう、「あつみ」を求められる役に当たって欲しいです。
朗読劇もそろそろもう1回観たいなぁと思います。
言葉だけでどこまで人を惹きつけられるのか見せて欲しい。
星乃さんは器用だからこなしてしまうだろうけど、例えどんなに下手くそでも毎日通うよ。
毎日良いところを見つけて手紙にするよ。
それから、先日「ストリップ学園」を観て、人って意外に丈夫なんだなぁと思ったので、星乃さんもきっと大丈夫。
もちろん、推しさんには毎日楽しく笑顔で過ごして欲しいです。
でも、役者も客も脳味噌ぐちゃぐちゃになるような舞台で会いたい。
喧嘩しようよ。
煽りあおうよ。
負けないよ。
っていろいろ書いたけど、つまりは私がおもしろいと思う舞台に立ってて欲しいっていうとってもとってもわがままな感情なのです。
今年はどんな年になるのかなぁ!
ハダカ座公演vol.1『ストリップ学園』@新宿FACE 2018.1.12-1.20
東京新宿歌舞伎町
大量に焚かれたスモークの甘い匂い、ピンクや紫の艶やかな照明。
「ストリップ学園」は非常識がよく似合うこの街の中でも、きっと1番熱くて、鮮やかで、そして秘密めいた世界でした。
物語の主役はストリッパーに憧れてストリップ学園に入学した5人の少女。ラン、葉子、朋美、姫華、いちご。
みんなそれぞれに可愛く、ひとりひとり愛おしい女の子だったのは、思わず「これは私だ」と感じてしまうような秘密を抱えていたからではないでしょうか。
最初に秘密を打ち明けるのは姫華。お嬢様らしく敢えてお高くとまっているような振る舞いと、本当は友達をとても大事に思っている素直さが可愛らしい女の子でした。
中学生時代のエピソードとして、同級生から仲間外れにされ、大人に近づくことでその同級生たちを出し抜く姿がテンポ良く気持ち良く描かれています。
有名政治家の娘という肩書きにも、自分の容姿にも、きっとそれなりに自信を持っていたであろう姫華。そんな彼女が、自分の性に群がる男たちの視線と視線を浴びることへの快感を覚えます。
女の子が自分の性を使う自由。
姫華の父はストリップ好きでありながら、娘のストリップに反発し文化祭を中止させます。しかし次の登場で、姫華は「家でたぁ!!」とあっけからんと言い放つ。
女の子は自らストリッパーを選び、踊り、脱ぐのです。ここに男の抑圧などあってはならない、男の視線を支配するのは女です。
一貫してそれが貫かれていたから、この作品は少しも下品にならず清く、妖しく、美しい世界でした。
そんな姫華を演じた藤原祐規さん。
お芝居も歌も、圧倒的に力がありました。
特に歌は力強くも官能的で美しい。視線の使い方、立ち振舞い、客が何を喜ぶか分かっているあざとさが、姫華を美しく飾っていました。
芹沢尚哉くん演じる朋美。
貧乏に生まれ、生きるために、そしてダンサーになりたかった自分の夢を殺さないためにストリッパーを目指します。
姫華と朋美は、金持ちと貧乏というだけでなく、自分の性の価値を、姫華は視線によって、朋美はお金によって自覚しているという点でも対照に描かれていました。
朋美は満面の笑顔がとても印象的です。
ランも満面の笑顔を見せますが、朋美は悲しみも怒りも笑顔で押し殺すように笑います。自分の不幸を見せまいと笑う姿は、普段の何倍も大人びて見えました。
だからこそ、年相応にはしゃぐ彼女の姿はとても可愛い!
パジャマとも呼べないようなスウェットの下で胸をたゆんたゆんと揺らして飛び跳ねる姿。
姫華が用意した高級な(?)食事に目を輝かせる姿。
そしてエンディング、大きな胸を丸出しにして大口を開けて満面の笑顔で歌う姿。
思わず目を奪われてしまう、とても好きな女の子でした。
石田隼くん演じる葉子。
全盛期をとっくに過ぎた今もストリッパーとして踊り続ける母に反発して自分もストリッパーを目指します。
ストリッパーの母を持つという普通とは違う境遇にいながらも、この学園の生徒たちに比べたら、おしゃべりが大好きな普通すぎる女の子です。
葉子のおしゃべりはまるで、自分に足りない覚悟や経験を誤魔化すかのように続けられていました。
ハダカ座の支配人から、「お前はラウンドワンとか行ってはしゃいでいるのがお似合いだ!」と言われる場面があります。葉子を表すにはあまりに的を得ている一言。
姫華や朋美の秘密を目の当たりにした葉子に支配人の言葉は、思わず反発してしまうほど重く響いたに違いありません。
彼女が朋美に自分の秘密と弱さを打ち明けた時、姫華や智美が少しだけ先にいたことを認め、そしてようやく並んだ瞬間だと感じました。
と、いろいろと書きましたがそんな小難しいこと吹っ飛ぶような石田くんのエキセントリックなお芝居は、女の子役の今回も健在!雄々しい声と独特な表情、どうしてそうなった?と困惑するような動き、だんだん三つ編みをした石田隼を見ているような気分になりました。
個人的にツボだったのが、男性ストリッパーの武ユタカ。うまく言えませんが、あの妙な(それでいて本人はきっと無自覚な)キメ顔が本当に好きです。
改めて、石田隼は天才なんだと思います。このまま突き進んで欲しいです。
そして、いちご。
乱暴な言い方になりますが、女の子はみんな「いちごちゃん」だと思います。
みんなそれぞれの心の中に愉快なナースを飼って、深い傷を負った「わたし」を癒しているでしょう?
新しいワンピとかシャネルのリップとか、強くなれる気がするそれぞれの「ナース服」を着て生きているでしょう?
この物語の中で1番観客に近い位置にいるのはいちごちゃんだったのかなと思います。
「わたしのこと、見えますか?」と、いちごちゃんは問います。
無視されずに描かれるという優しさがこの物語にはありました。
本当に誰かを救おうと思ったら、痛みは必ず伴うものです。
コーラの注文が通らない女の子、
お金を介さないと会えない相手に恋をした女の子、
キスをしたことのない女の子、
仲間外れが怖い女の子、
女の子たちが胸の奥に抱える柔らかい部分を本当にさりげなく、もしかしたら救われたなんて思い違いだったんじゃないかって感じるくらいさりげなく、混沌と混乱の中で描いてしまうとんでもない作品でした。
少女たちが服を脱ぎ捨てて裸になっていく中、ストリッパーになるために服を着ていく必要があったのが、古谷大和くん演じるランです。
ランは初めから素っ裸の少女でした。
絵に描いたような天真爛漫さはまるで3歳児!喜三郎と出会って楽しそうな姿は頭のネジが2、30本抜けちゃっているのではないかと心配になります。
恥じらいを知らない女の子なのに、踊りだすと誘惑的な姿に魅了されてしまう。
言葉以上に天性の才を感じるのは、演じる大和さんの持つ才能と魅力なのだろうなぁと思います。
そんなランが絶望の中で魅せるソロストリップ。
纏った衣服を愛する男のために脱ぐことを知って、ランは一歩大人に近づきます。
感情いっぱいの踊りに、ウズメ嬢のような慈愛や自信はまだ無いけれど、幼虫が蛹になって脱皮するような力強さと若さを感じました。
そして大和さんの身体が凄かった!
1mmの弛みもなく割れた腹筋が天井を向いて、褐色の肌を濡らす汗が光ります。
逞しい脚は惜しげも無く開かれる。
なのに、身体の上には柔らかく揺れる胸と、とびきりキュートなお顔が付いていて、男も女も超越した不思議な魅力がありました。
女の子たちがそれぞれの魅力を見せる中、圧巻の美しさで「アゲハ」の称号が持つ意味を示したのが、中村中さん演じるウズメ嬢。
とにかく美しかった。綺麗だった。そして誘惑的で強くて、優しかった。
どんなに言葉を並べても意味がないくらい。一目瞭然。
ハダカ座を壊さんばかりの歌声と挑戦的な詩は心に絡みつき、そしてゆっくり溶かされるようでした。
とにかくあの場にいれば1秒ですべて理解できるし、次の1秒ではもう虜になってしまいます。
おチップや紙テープも楽しかったです!
紙テープは、大好きな踊り子さんのステージを自らの手で彩れるという楽しさがありました。
おチップはメンズストリッパーに渡すのですが、限られた時間であちこちに行ってチップを回収しなければいけない彼らが、けっこう雑に手からチップを奪っていく姿が個人的にどストライクでした。
客も客で慣れてくると、大好きなはずの彼らにかなり雑にチップを押し付けるので、漂う無礼講な雰囲気がおもしろかったです。
ざっとこれだけのことが、超音速マッハで繰り広げられるのです。
どのくらい速いって言うと、1年間が2時間に感じられるくらい!
第2幕の始まりを聞いた次の瞬間第15幕が終わってるくらい!
役者達の衣装は汗でべったり肌に張り付き、客の脳みそはボコボコに殴られKO寸前。
「ストリッパーになりたくてたまらない!」と叫びながらパンティを脱ぎ捨てる女の子たちのなんと気持ち良いこと。観劇後、私も無性に脱ぎたくなりました。
大和さんの言葉を借りるなら、この非常識を引きずったまま、私たちはまた常識の世界で生きていかなければならないみたいです。
早くまた、あの可愛い“少女たち”に会いたいなぁ。
舞台『アンプラネット- Back to the Past!-』2018/1/5-2018/1/14@品川プリンスホテル クラブex
アイドルステージシリーズ第4弾アンプラネットの新作、『アンプラネット-Back to the Past!-』
1秒も見逃せない、1ミリも隙のないこの舞台をどう書いたものか悩んでもう何度も書き直しています。
アイドルステージシリーズで何が魅力というと、やはりアイドルへの揺るぎない「愛」だと思うのです。今作でも、個性的なアイドルたちを零すことなく1人1人丁寧に拾って、全員が魅力的なアイドルになっていました。
その中でも、今作でまた違う魅力を見せたのが1番上の兄であるセシィ。
今までのセシィは、ときどき隙や熱さを見せながらも、基本的には冷静で頼れる存在でした。
しかし今回、何年も何十年も何百年も探していた姉さんを手に入れられる機会を前に、兄弟の中でも圧倒的に焦り、余裕を無くしていたのはセシィでした。
今にも泣き出しそうな顔、切羽詰まった必死な顔。美しい顔が歪むほどのセシィの表情には、ライブとは違う方法でビジューの心を締め付ける魅力があります。
もちろん、セシィだけではありません。
マーニィはライブの時のきゅるきゅるした可愛さとは違う、男の子っぽいちょっとガサツな動作や話し方をする緩急にやられてしまいます。
サティのそのまっすぐな瞳の輝きに違わない澄みきった言動は、老若男女問わず観客全員の母性本能を刺激していました。
美波日音は、アメリカにいた頃の姿が描かれています。
CHaCK-UPに入った頃とまるで印象の違う、暗くて自信の無い姿でした。
しかし、ジェームズに「お前は一生ステージに立てないのだから」と言われ、睨むとも悲しむとも思える表情でじっとジェームズを見やります。それは、ジェームズが怯むほど強く。
「宇宙一のダンサーになること」便利屋ポミィがずっと語り続けている夢に通じる日音の強い意志が見えた、とても好きな場面です。
これは余談ですが、充分に才能があるのに、華やかな兄や地味な容姿によって自信の持てない時期があった日音の目に、根拠のない自信に溢れた天宮王成という人物はどう映ったのでしょうか。
2人が出会い、それを強調するかのように『ミュージカル「CHaCK-UP -Episode.0-」』が描かれたのは運命的に感じます。
アイドルステージに登場するアイドルは単なる”キャラクター“ではありません。
例え舞台の上にいても、吐いた息のあたたかさを感じられるほど”生きている“から、彼らの物語は多くの人を惹きつけて、そしてそのまま離さないのです。
あの日、CHaCK-UPのヘルプクルーだった日音は自分の居場所を求めてアンプラネットを選びました。
見ているこちらの居心地が悪くなるほどポミィ中心に作られたステージ。リーダーとして用意された場所に収まっただけのように見えた日音でしたが、その直向きさは確実にアンプラネットの心に届き、自分の居場所を自分で作っていたことが今回ようやく分かりました。
その証拠に、日音はアンプラネットがいなくても、自分の居場所を自分の手で掴んでいます。
日音が積み重ねた努力が、姉さんも入っていないただの高校生である“美波日音”をアンプラネットに選ばせたのです。
そしてこの物語で、姉さんの魂が日音に移ったのはエリィの所為だったということが明かされました。
個人的に、前回の『ミュージカライブ「アンプラネット-ボクの名は-」』で、きっとこの八方塞がりな状況を打破してくれるのはエリィだと思いました。
エリィだけが、ポミィに着いて行きたいという意思も、アイドルとしてCHaCK-UPと対峙する理由も、もうすでに持っていたから。
だからこそ今回エリィが不在の中で、エリィが無意識に導いてくれていたチャンスを掴めたのはとても意味のあることだったと思います。
「どっちも頼む」
ひとつだけを求めて途方もない時間を彷徨い続けたアンプラネットが見せた初めてのワガママ。姉さんも日音も欲しがった瞬間、彼らはようやく「アイドル」になりました。
そして、まだ初々しいアイドルたちに要様が語ったアイドル論。
「帰る居場所が出来た時、僕らは初めてアイドルになれる」
「仲間が、応援してくれる人たちが居場所を作ってくれる」
アイドルとは居場所であり、居場所とは「帰る場所」である。
この言葉はそのまま、何度も時間移動を繰り返してきたアンプラネットが、それでも戻ってくる2018年の地球に確かに存在している「アンプラネット」というグループへの言葉になります。
しかし、それと同時に、時間が経つにつれて揃うことが困難になっていく、ここで生まれた全てのアイドルグループとそれを応援するわたしたちへの言葉になりました。
E.T.L vol.9で、ポミィの出番は極端に少ない。そして、きっとこれがアンプラネットの答えです。
日音がアイドルだったからアイドルを利用していた彼らが、アイドルを選び、アイドルになる為に立つ初めてのステージ。
ようやく横1列に並んだ彼らは、もうポミィを中心に立てる必要はなくなったのでしょう。
3部作にも及んだアンプラネットの物語は、今回の作品で第1章の完結を迎えました。
今までのアイドルがそうだったように、これからの「物語」はすべてわたしたちの目の前で起こります。
アイドルステージのライブパートはあくまで物語の続きにあるのです。
生まれた瞬間黄チャームだったわたしにとって、今回は初めて金星人★ヴィーのいないアイドルステージでした。(ヴィーちゃんっぽいのはいたけど)
アイドル達にとってアイドルが帰る居場所であるように、わたしにとっても、アイドルステージは帰る居場所です。
そしてもちろん、その居場所に大好きなアイドルが欠かせません。
大好きなアイドルが帰ってくる未来を守るために、わたしはこれからも「アイドル大好き!」「アイドル最高!」と叫び続けるのだろうなぁと思います。
そんな今回の物語で誕生したアイドルが、彼らの世界では伝説となった三日月を追っかけてやってきた未来人アイドルのプライムーンだなんて。
未来のために過去を紡ぐ、また新しい物語の始まりにわくわくするのです。