キイロイ

ホシノつくヒト

ぼくらが非情の大河をくだる時-新宿薔薇戦争- 3月16日〜20日本多劇場Aチーム

分かりやすい芝居ではないので見るたびに役者の演技もわたしの感じ方も変わって、ひとつの文章にするのは難しく、感想というよりはごちゃごちゃとした備忘録になっています。
 
 
白い公衆便所に紅い薔薇の花。こういう世界観好きな人一定数いるでしょ、分かる分かるよ、な舞台美術。そんな場面に不釣り合いな程乱暴で荒々しい言葉がいわゆる「2.5次元俳優」と呼ばれる俳優を通して投げつけられる。親切な舞台に飼いならされた「観客」のわたしはまるで喧嘩を売られているような気分で、容赦なく投げつけられる活字にどうにか立ち向かおうと躍起になっていた。
 
初見から、45年も経って時代背景も政治的思考も全く違うのに、若者たちの焦燥は変わらず共感すら覚えた。
特に父親に対する兄弟の当たりの強さ。永島敬三さんは「殺意は月夜に照らされて」で一度拝見したことがあるけれど、むしろ好感を持っていた役者さんだ。それなのに父親の台詞はすごく不快に感じた。表面上は普通に父親とコミュニケーションをとれている兄の方が「俺たちと一緒にたたかう勇気があると思うか。やつはただのうす汚れた豚だ」など見下げた発言をしているのは、自分が父親側に近づいている恐れを感じている所為だろう。わたしが父親の台詞に不快感を覚えたのもの同じだ。小さな理想も叶えられず舞台の隅に転がっているような「老いぼれ」になりたくないと思う反面、1972年の兄弟から見れば2017年のわたしはむしろ「父親」の側なのだ。その事実がわたしを苛立たせる。短く強く凶暴な言葉と暴力に変わる。兄の父親への嫌悪はそういった感じだった。
兄は弟を殺そうとしていた、それは一度は兄が理想を捨てようとしたことを意味する。それでも捨てきれず、兄は弟を追いかける。かといって、弟の方から近寄られると拒絶する。弟の理想は兄だった。突然揺らいだ理想は弟の混乱を招く。恐らくこの戯曲は、兄弟が一人の戦士として生まれ変わるための殴り合いと殺し合いを描いている。兄弟の敵は「世間」と呼ばれるものだと感じた。実体はない、でも確実に自分たちは不利な状況に追い込まれている。誰かが自分たちを外側から眺め、品定めし、笑っている。でも「世間」って、いったい誰なんだろう。戦士として生まれ変わっても、兄弟の進もうとする未来は明るいものでは決してない。
凄惨な画面とは裏腹に、ラストシーンは少年ジャンプの最終回のような、希望に満ちた爽やかなものに感じた。(これはAチーム千秋楽のアフタートークで明らかになったのだけれど、兄を演じた古谷大和の「希望があって欲しい」という思いが溢れた結果だそう)公衆便所のアンモニア臭と血飛沫と弟の屍体、そんな中に不釣り合いに輝く「希望」は、それはそれでアンビバレンスな美しさがある。それに、役者の解釈云々抜きに、そんな状況で、明るい未来など見えないに関わらず、前に進み戦うことを最善として選択した「本」に羨ましさを感じるのだ。だってわたしは蹴っ飛ばされて転がる「父親」だから。
 
千秋楽、詩人が鮮血を浴び「とっとと失せろ!」と便器に突っ伏すシーン、詩人役の神永圭佑くんが本を破り捨てた時、わたしの心臓は一気に加速した。わたしは興奮していた。2017年の若者が、1972年の言葉を超えた瞬間を目撃したから。