記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。-極上文學第十三弾「こゝろ」
読み師はその手元に一冊、本を持っています。
先生に出逢った私はその本を抱き締めました
結婚の申し込みの際、先生は本を力強く静の母親に差し出しました
妻は先生の本に手を伸ばしますが、本には触れることができず宙で止まりました
Kは死際に遺書を挟み、その本を閉じました
彼らの本は朗読する為の台本であることを超えて、彼らの「こゝろ」としてそこにあります。
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マルチキャストの本作で、わたしが観劇した回の組合せは下記となります。
残念な事に他の組合せを観ることは叶いませんでしたが、役者によって印象がだいぶ変わるかと思いますので、敢えて記しておきましょう。
私…内海啓貴
先生…平野良
K…松井勇歩
妻…東拓海
平野良さんは、歩いた後に色気を落としていくような先生でした。
先生が他の人物と身体を触れ合わせることはほとんどありませんが、そういった行動無しにも、何処からか香る色っぽさがあるのです。
若い私が先生を見つけ、その心を開かせようと苦労することが必然のように感じました。
未熟で真面目な魂を攫ってしまう妖しさを纏う先生です。
序盤で、先生が私の顔に付いた砂を払う場面があります。
眼に見える以上の甘い空気、そして息を呑むほど美しい光景でした。
先生がどれだけ私に近付いても、私の頭の後ろに回された先生の心を、その存在は感じ取れるにも関わらず、私は捉えることができません。
その代わり、先生越しに自分の心を見たはずです。
私は胸の前に戻ってきたそれをそのまま抱き締めました。
心と心の触れ合いは、時に道徳的な優しさをもって語られます。
しかしこの時、私が先生に抱いたものは欲望でした。
愛欲にも似た欲望が、無邪気な好奇心と憧憬の奥に生まれた瞬間を見たように感じます。
「私」を演じたのは内海啓貴くん。
純朴で整った麗しい顔立ちが、舞台装置のひとつとして「私」を彩っていました。
彼を観るのは、3(5?)作品目*1となるのですが、こんなに美青年とは知らなかったです。
東拓海くんは「妻」を演じました。
拓海くんの芝居は、その場の空気感を不意に飛び越えてしまいそうなところに魅力と恐ろしさがあります。
だからこそ本作の彼は、「飛び越えまい」とする芝居だったように感じました。
妻は、可愛らしい女です。
Kや先生が神経までも擦り減らす様に敢えて困難に生きる男である分、等身大に感情を使う妻は可愛らしく見えます。
“最も幸福に生まれた人間の一対であるはず”の先生と妻の繋がりは、結婚や出産が当たり前の幸福でなくなった現代のわたしの眼には、信じられない程に美しく見えました。
彼らが交わした中に「恋」や「愛」という言葉はありません。
きっとそんな言葉では表しきれないから「心」なのでしょう。
他人であった筈の男女の間にこれ程の愛情が生まれるものか、とわたしは堪らない気持ちになるのです。
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舞台の上は、鮮やかな色彩によって印象的に彩られていました。
白黒の活字世界を、これだけの色の中で立ち上げていることは、素直におもしろいなと感じます。
はらはら落ちる銀杏の葉、まあるい美しい月の黄色。
切腹で舞い上がる鮮血、Kが遺せなかった心で白い壁を汚した紅。
先生が遺書に書き留めた言葉は絵具となって、着物を剥がされた私とKの身体を色とりどりに汚していきます。
妻の白くて柔らかな手(その手が大きな男性のものと知りながら、この時わたしにはこう見えたのです)も、同様に。
そして、先生の最期を覆い尽くすようにどさっと音を立てて落ちた金色
その美しい光景は、猛烈な遣る瀬無さと共に網膜に焼き付いてしまいました。
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本作、物語の語り師は“吾輩は猫である”の猫でした。
猫は心を持ちません。
そういえば、開演前に客席に迷い込んだ具現師も五匹の猫でした。
猫たちがおもむろに破いたり、ばら撒いたり、オモチャにしていたものは、あの“本”だったではありませんか。
人間は心の為に生き延ばしたり自ら死を選んだりするのに、猫たちはそれを大切に扱うべきなのかぞんざいに扱って良いのかの区別すらしないのです。
それでも、先生の生きた姿を美しいと思ってしまったから、
わたしは「私」の身体に遺された先生の「こゝろ」を思いました。